しおりさんの耳はろばの耳 ~ADHD当事者ライターのないしょ話~

大きな声では言えないこともコソっと言っちゃう。 ジャンル:障害福祉、家族、メンタルヘルスなどなど

「先生、明日も来る?」と毎日確認していたTちゃんと児童虐待

「あんたなんか、要らない!」

小学校5年生のTちゃん(仮名)をお迎えに来たお母さんが怒鳴っていました。ヒステリックなキンキン声があたりに響きわたります。

「聞いてくださいよ!この子、昨日も口答えしてばっかりで喧嘩したんです!弟はかわいいのに、どうしてお姉ちゃんはこんななんだろう?」

隣に本人がいるのに、お構いなし。こちらがたじたじとなって「本人が聞こえる前で、そんなことを言っちゃだめですよ。」とやんわりと制してもお母さんは、聞く耳を持ちません。

それでも、子どもの帰れる家は一つしかない。こんな場面に出くわすとき、私は自分の無力さを痛感します。

私は、放課後等デイサービスという障害のある子どもたちの通う学童のような場所で働いています。学校帰りの子どもたち向けのサービスです。

Tちゃん(仮名)はうちに週6日に通う小学校5年生で、すごく人の気持ちに敏感に反応する女の子です。

Tちゃんは、毎日のように「先生、明日来る?」と確認をしてきます。私は週に5日働いているので、聞かれなくても大体はいます。最初は、「なぜ、毎日のように同じ質問をするのだろう?」と不思議に感じていました。

でも、徐々にTちゃんを見ているうちに「今日までの当たり前が、明日以降も続くと信じられないのかもしれない。」という気がしてきました。

Tちゃんのお家は、かなり大変。お母さんのTちゃんへの態度はコロコロ変わります。

心に余裕があったり、楽しいときには、すごく可愛がる。プレゼントを買ってあげたり、一緒に外食に行ったりします。怒ることもほとんどありません。

けれど、お母さんの仕事がうまくいかなかったり、恋愛で大変なときには態度が一変します。つねったり、怒鳴りつけたり、食事を用意しない、お風呂に入れないなどの育児放棄をしたりします。

虐待と、可愛がりを行ったり来たりしています。児童相談所も、Tちゃんが虐待されている事実は把握していて、いつでも保護できるように待機していました。

時間をかけて、ゆっくりと、Tちゃんのお家は崩壊していきました。仕事が続かず、支払いが滞り、心理的余裕がなくなり、虐待をする負のループにハマっていました。

外からどれだけお母さんに働きかけても、事態はよくなりませんでした。ついに、児童相談所が動き始めました。

「先生、明日も来る?」Tちゃんは、いつものように聞いてきました。何度もされた質問。だけど、その日だけはちょっと様子がちがいました。

その日は、児童相談所の人がやって来て、大人だけの話し合いの場が持たれる日だったのです。

Tちゃんは、スーツを着た大人たちが何の話し合いをするのか、分かっていたのだと思います。必要以上にはしゃいでいました。大人同士の話を子どもに聞かせられるはずもなく、Tちゃんは別室に連れていかれました。

あまり大人数が残る必要もないので、私はTちゃんのいる部屋に寄ってから帰る予定でした。

すごく明るく、はしゃいだままのテンションで明日の予定を話すTちゃんを見たとき、グッと胸が詰まりました。

来るよ。私は来るけど、あなたは、明日、来られないんじゃないの?

そんなこと言えるはずもなく、私も負けないくらい明るく笑って答えました。

「来るよ。」

「そっか、じゃあ、また明日ね!」いつものように、約束をしました。

「また、明日!」

「うん、また明日ね!」

案の定、翌日、Tちゃんは来ませんでした。そのまま、児童相談所に保護されたのです。保護されると、外には出られません。「しばらく、来られないけど、親戚のお家に遊びに行っていることにしよう。」と職員には伝えられました。

あの子はどんな想いで、毎日「先生、明日も来る?」って聞いていたんだろう。別れは唐突に来るって知っていたんだろうか。それとも、明日も来るとわかっていても、確かめないと不安だったんだろうか。

明日を無条件に信じられない子に「ずっと来るよ。」なんて、無責任なことは言えない。きっと、そんな軽い言葉を聞いてもTちゃんの不安は消えない。何度も、何度も、確かめるんだろう。

私は、また、変わらずに職場に行く。Tちゃんがいなくても、仕事は進む。Tちゃんは、また帰ってくるかもしれないし、帰ってこないのかもしれない。帰ってくることがいいことなのかどうかは、私にはわからない。

子どもは親を選べない。どんなに親から拒絶されても、親を全力では嫌えない。ひどいことを言われても、暴力を振るわれても、Tちゃんはママに愛されたかったんだと思う。私は、一時的な代わりにすらなれない。自分にできることは、本当に少ない。

Tちゃんが、帰ってきたときに「先生、明日も来る?」って聞かれたら、毎回、答えてあげよう。いつか、Tちゃんが確認しなくても明日が信じられるようになるまで、何回でも答えよう。

私にできることって、他にもあるのかな。

毎日更新の文字数は1000文字くらいがちょうどいい。余白のススメ。

毎日更新を1ヶ月して「このくらいのペースなら続けられそうかもな」というのが少しずつつかめてきました。

具体的に言うと、「1000~1500文字くらいのブログ」が今のところバランスがいいです。

最初の1週間くらいは、毎日のように2000字越えのブログをそれこそ1時間半~2時間近くかけてアップしていました。私は、月1本Plus-handicapというメディアにあげているコラムが大体2000字なので、そのやり方しか知らなかったのです。

でも、2週間くらいたったときに自分のズラリと並んだブログを見て思いました。

「圧がすごい…。」

余白がなくて、食傷気味。我ながら、ちょっとうっとうしかったです。

これは、文字数だけの問題じゃなくて、最初は「やったるぞーーー!!」みたいな気合いがみなぎっていたからです。あれもこれも詰め込みたかったです。内容も「読まれなきゃ」と過激な書き方をしたりもしました。文字数のせいにしちゃいけない。

1ヶ月経って、少しずつ肩の力が抜けてきたかもしれません。そんなに詰め込まなくてもいいか。何を読みとるかは、書き手だけが決められるものじゃない。もうちょっと「どう、読むか」は読み手次第でもいいのかなーという気になってきました。

その上、毎日2000字は書く方だけでなく、読む方も大変。たぶん、最後まで読まれずに離脱されることが多かったんじゃないでしょうか?

ブログって「仕事の合間」とか「ちょっと一息」みたいなときに、休憩室のおしゃべりみたいな感覚で読む人も多いんじゃないかなー。だとしたら、ちょっとした気晴らしが目的だったりします。

一方向のことを考えると、休憩室のおしゃべりより、ラジオに近いでしょうか?流しっぱなしで、なんとなく気になったところだけは拾いたい。あとはスルーしてもいいや、くらい。

書く側も、読む側の負担としても「2000字」って重たい。言いたいことがあるときは、2000字くらい必要なのですが、毎日である必要はありません。

それで、辿り着いたのが「1000~1500字くらい」のコラム。

昨日、ブックレビューも1000字で書けるということがわかったので、意外と可能性はたくさんあります。

「無理をせずに継続できる工夫」をこれからも、探していきたいなと思います。

自分にキャッチコピーをつけたい。『こだわりバカ』ブックレビュー

本を読んで「空気コピー」という言葉に出会いました。

そこに書かれている言葉、本当に大丈夫ですか?何の印象にも残らない常套句のオンパレードになっていませんか?
空気のように何の効果もないようなフレーズが並んでいます。そんな無駄な言葉はないほうがマシです。p.18『こだわりバカ』川上徹也

コピーライターの川上徹也さんがお店、大学、地方自治体、企業の実例を挙げながら「印象に残るコピー」「空気コピー」を紹介してくれる本です。

そして、空気コピーにならないために、どうしたらよいのか?と考えていきます。それに、必要なのは「物語を売る」ことだと書かれています。

「ストーリーブランディング」を確立するために、まずしなければならない、一番重要な要素があります。それは、「発信側の志や哲学を1行に凝縮し旗印と掲げる」ということです。
旗印になる1行が際立っていて、世の中から共感を得ることができれば、「物語」が生み出されていきます。p.12 同上

これ、文章を書く人も同じだと思います。「何でも書きます!」って人には、何の仕事を頼めばいいのかわからない。それに、プロフィール欄にたくさん書いてあっても、頭に残らないことがあります。

もっと、羅針盤になるような1行が欲しい。どのテーマについて書いても、結局一番大切にしているのはここ。角度や視点やたとえ話が変わっても、自分がブレないのを目指したい。

たとえば、社会派ブロガーで有名なちきりんさんは、色々なニュースについて意見を書かれていますけど、全部「ちきりんっぽさ」があります。twitterの自己紹介欄を見て、納得。

人生の旅&リアルな旅を通じて感じたこと、学んだことの中から「12歳の時の私」に知っておいてほしいコトを呟きます。

「12歳の私」に知っておいてほしいコト、なんですね。だから、難しいニュースもわかりやすく書いてあるのか。こういうのがブレなさにつながるのかなーと思います。

わかりやすさって、何も「イケハヤ流脱社畜」みたいな、過激なものだけでもありません。全体通して、一本の筋が通っていることが大事なのかな、と思います。

きっと、これは一朝一夕でできるものではなくて、かなりの量をこなしたり、掘り下げたりしてようやく見つかるものだと思います。コピーライティングとかもきっと、時間をかけて何百、何千というボツがあって、一つが生まれるのではないでしょうか?

「自分にキャッチコピーをつけたい。」この本から受けた影響はその一言に尽きます。

発達障害当事者から見た「妻に自分の言動が漫画にされて許せない」について

今、はてな匿名diaryでの「妻に自分の言動が漫画にされて許せない」というトピックが話題です。

ザックリ要約すると「妻が自分に黙ってtwitter上で夫婦のやりとりを漫画にしていた。喧嘩が一方的な立場から書かれたのはまだいいとしても、夫の発達障害を勝手にバラしたことと、妻だけに言った感謝や愛の言葉も全部晒されたのは許せない。」ということです。

ただ、この拡散が「本人に使用許可を得るのは大事だよね」で終わっていることが多い気がして「それはちがうのでは?」とモヤモヤします。

今回、トピ主さんの怒りを買っているのは、「夫が発達障害であること」と「夫婦間だからこそ成立するやり取り」の2点を勝手に公の場で晒されたことだと思います。

私は、発達障害当事者&ライターでもあるので、幸い、どちらの立場も共感しやすい。ちょっとこの件について掘り下げようと思います。

今回のトピックの内容から読み取れることを、整理していきたいと思います。「フェイクも混ぜてある」と書かれているので、不完全になってしまいます。また、私の予想でもあるので、実際とは異なる可能性についてはご了承ください。

今回、妻は多分健常者だと思います。障害者同士なら「痛み分け」になるので、ここまでの怒りを買わないはず。

twitterで漫画を描いているとのことですが、もともとプロの漫画家ではなかったのかもしれません。少なくとも、日常的に漫画で食べているタイプならこんなに「寝耳に水」にならないはずです。

おそらく、趣味で書いていた漫画の人気が出たタイプではないでしょうか。「誰も話せる相手がいなくて、ネット上ではじめて共感してくれる仲間がいたのかもなぁ」という気もします。

で、次は夫の考察。この文章を読む限りは「大人の発達障害当事者」っぽいです。勝手な予想ですが、ほとんどの場所で発達障害を隠して生きている方なのではないでしょうか。いわゆるクローズ就労(※障害を隠して働くこと)をしているタイプに見えます。なぜなら、すべての場所でオープンにしている人は、ここまで怒らないことが多いからです。

発達障害は意外と隠せます。私も片方の職場では隠して働いています。見た目でわからないので、「なんかズレているやつ」くらいな扱いで済むこともあります。

障害を隠すのって、本人からするとかなり切実な問題です。ここには「障害である自分を受け入れられない」という障害受容の問題も関わってきたりします。大人になってから、障害が判明したりすると余計に難しいのです。

ここからは、拡散されている状況について話をします。今回、主に、ライターやブロガー「日常を書くこと」に携わる人に次の言葉が刺さって拡散されています。

俺の人生は、俺の痛みや俺の言動は、全部全部俺のものなんだよ。
誰かのコンテンツになりたいわけでも、誰かのエンタメとして消費されんのもまっぴらごめんなんだよ。

私もかなりこれを読んで、何人かの顔が浮かびましたし、気を付けなければ…と自分を戒めました。

これが正式な取材だとしたら「相手への取材依頼→OK→日程調整→取材→完成原稿を相手に送る→OKまたは、調整依頼→必要であれば修正→確認、OK→公開」と踏むべきステップが段違いに増えます。クレームがつかないために必要なステップではありますが「取材で聞いた生の話の方が圧倒的に面白かった」となってしまうことが多いのもまた事実。

公表できない素の部分の方が面白いんです。カメラを向けられたときの作り笑顔よりも、日常で見かけた自然な笑顔の方が素敵だったりするじゃないですか?そういうものです。

みんな自分のことって、多少「よく見せたい」んですよね。だから、似顔絵のイラストレーターの方とかも「そっくりに描く」と「私の顔はこんなにひどくない」と怒られるらしいです。「ちょっと美形に補正」すると「そっくり」と満足してもらえると聞いたことがあります。私たちの頭の中には天然のSNOWアプリが最初から、搭載されているってことです。

だから、「夫婦間のやりとり」も描いた本人としてはリアルに伝えているつもりかもしれませんが、相手からしたら「それは本当の自分じゃない!」がかなりあるはず。

自分のカッコ悪い部分をさらけ出すのはアリですが、家の中の相手のカッコ悪い部分とかをさらけ出すのは、ちょっとルール違反かな…。読んでいないのでわからないですけど。

だから、今回はもう残念としか言いようがない。漫画の書籍化の話が出ているってことは、それだけコツコツ積み上げてこられて、ファンもついているし、出版社の方まで巻き込んでいます。

たくさんの人を巻き込んだ壮大なプロジェクトになっていて、それだけ多くの人の共感を読んだり、感動を呼び起こさせる力があったはず。もうちょっとどうにかできなかったのかなー…と苦々しく思ってしまいます。

ただ、一つ言えるのは「他人の秘密を勝手にバラす」のは、やっちゃいけないです。今回の場合、旦那さんは隠している場所もありそうな方ですし、隠したがっている相手の秘密をバラすのはダメです。

あとは、許可を得るのだけでなく「他人のことは、あまり悪く書かない」って大事だと思うんです。具体的に、私は相手を目の前にして言えることしか書かないと決めています。相手に言えることだとしても、他の人の評判を落とす内容はなるべく書かない。文脈上どうしても必要な場合は、イニシャルのみで特定できないようにボヤかして書くとか。

「リアルな姿を伝える」方が面白いし、問題提起にもなる。でも、個人や周りは傷つくこともあるから「隠したり、加工したりした方がいい」ときもある。バランスがむずかしいなあと思います。

ひとりの努力は挫折しやすい。だから、私は「読む仲間」が欲しい。

読書って、楽しいけどぶっちゃけ、けっこう大変じゃないですか。

以前に、この話をしたら「好きだから、ちっとも大変じゃありません。」と返されたことがあります。あれっ?笑 

私は、正直に言うと、読書が大変なときがあります。読むには、頭を働かせなければいけません。うつの人とかは「文字の本が無理」って方、かなり多いのも納得します。

大変は大変なんだけど、やっぱり本が大好き。好きなことについて話ができる仲間が欲しい。読書を習慣化したい。そう思って、読書会を主催しています。

私は4年位前までは「特定の好きな小説を気まぐれに繰り返し読む」という読書の仕方をしていました。本は好きっちゃ好きなんだけど、そこまで本気度は高くない。「一般人から見たらオタクだけど、オタクから見たら一般人」みたいな位置だったと思います。

私の読書の仕方が変わったのは、前に一緒に住んでいた人がきっかけでした。彼は圧倒的なまでに「本が中心の生活」を送っていました。大学の頃から「年間100冊新しい本を読む」と決めていて、家の中は本だらけ。

言ってしまえば、彼との生活は「読書にスパルタ」な環境でした。絶えず本の話題が出て、一緒に行く場所は本屋か、喫茶店。新しく買った本はお互いにチェックして、感想も聞く。「今年に入って、今何冊目?」と競い合う。そりゃ、本を読むようになりますよね~。

私の場合は、完全に彼の影響ですが、とにかく量をこなしていくうちに、少しずつ見えてくる景色が変わってきました。

自分の身に起きていることを、言葉で説明できるようになってきました。自分は何が好きで、どんな偏りを持っているのか。何に共感をしやすく、何に反発を覚えるのか。どんな価値観を大事にしているのか。

読書をすることで、自分を少しずつ知っていきました。本は、私の基礎を築いてくれたのです。だからこそ、これからも読み続けたいと思っています。

けれど、己の敵は己。私は楽な方に流されやすく、ついつい一人だとサボりがちになってしまいます。こんな自分を見るたびに「私は、ひとりじゃ頑張れないんだな…」ということを実感します。

「今月はこんな本を読んだよ」という話ができる相手がいれば、読めるかもしれない。

「最近のおススメは何かある?」と聞ける相手がいれば、読む本の幅も広がるかもしれない。

読書自体は、ひとりでやるものかもしれないけれど、シェアする環境はあった方がいい、と思うようになりました。

本を読んでいるときに「あの人、これ好きだろうな」と顔が思い浮かぶ人がいると励みになる。ページをめくる手を止めて、ふっと「あの人は、この本をどう読むんだろう」と思いをめぐらせるのも読書の醍醐味のひとつ。

人によって読書会に参加する動機やモチベーションはちがうはずです。私にとっては、「本を読む人ともっとつながりたい」ということがきっかけでした。

だから、毎月、読書会を開催しています。次回は、7月23日(火)の19時半から「神保町よりみち読書会」をします。「今年に入ってハッとした本」をテーマにゆるく、90分おしゃべりをする予定です。

私は文章を通して、たくさんのプレゼントをもらいました。感動したり、新しいことを知ったり、今までは気づけなかった発見をしたりしました。たくさんもらったものを、次の人へ渡したい。少しでも、輪を広げていく一部を担いたい。そう、願っています。

本の話を通じて、あなたの大事にしていることの話を聞かせてください。

ひとりの努力は挫折しやすい。だから、私は「書く仲間」が欲しい。

私は今年のはじめ、いきなり文章が書けなくなりました。もともと、文章がメンタルの影響を受けやすいタイプではある上に、その時期はかなり色々な変化が重なっていて大変な時期ではありました。

それにしても、書けないのはマズイ。お金をもらって書いている以上「今月は、ちょっと無しで!」ってわけにもいきません。どんな事情があるにせよ、「こんなにムラがあるようじゃ、プロとは呼べないな…」という危機感を覚えました。

だから、毎日ブログを書きはじめました。ブログ内には「毎日、書いている」人が少なからずいて「その人たちのパワーをもらいたい」と思っているからです。

私はとにかく人の影響を受けやすいです。周囲の人が仕事熱心であれば、自分もつられて頑張れます。職場に仕事のグチばかり言う人がいると、それだけで仕事のモチベーションが下がってしまいます。

仕事をしていく以上、自分のモチベーションは自分である程度管理することが必要だと分かってはいても、かなり苦手な分野なようです。

この「影響を受けやすい」という性質は、よくも悪くもついて回ります。

私が「一年間に100冊の新しい本を読む」ということを過去3年間成し遂げられたのは、明らかに「一緒に住んでいた彼が読書家だったから」です。彼と一緒に生活していれば、毎日、本の話題が出るし、休日は本屋と喫茶店に行って本を読むことがルーティーンになっていたので、自然と100冊くらいは読めました。

「こんなにコロコロ変わるのもどうなのよ?」と思うのですが、まあ、半分諦めの境地です。

この「影響の受けやすさ」は、使いようによっては便利なので、積極的に利用しようと思います。つまり、「望ましい環境」を先に作っちゃえばいいのです。

ブログを始めたことも、その「望ましい環境づくり」の一つです。ブログでフォローしている人が毎日書いていれば「私も頑張ろうかな」と思えます。モチベーションが下がったときには、積極的に本を読んだり、ウェブの文章を読んだりと「なりたい姿」の人の言葉をシャワーのように浴びるようにしています。

大好きな作家が「書けないときでも、必ず机に一定時間向かっていた」と聞けば、「そうか、じゃあ、私も一定時間は必ず机に向おう」と思えます。

私ほど、影響を受けやすい人ばかりじゃないかもしれませんが、みなさんも多少は身に覚えがあるのではないでしょうか。

同じような努力をしている仲間を探したり、励まし合ったりすると、継続しやすい。

逆に足を引っ張るような人の近くにいたり、誘惑の多い場所には行ったりすると、挫折しやすい。環境から受ける影響って、かなり大きいと思います。

もともとは、ひとりぼっちでもコツコツ努力できる人に、憧れていました。孤高の人の努力は美しい。人の目があっても、なくても関係ない。自分は自分。そんなカッコいい人に、なりたかった。でも、私は一人じゃ挫折をしてしまうようです。

だから、私は「書く仲間」が欲しいし、「書き続けている人」をフォローしたい。心が折れそうになったとき「この人も頑張っているから、私もやるか」ってパワーをもらいたい。

これからも、「書き続けている人」とつながりたい。そして、少しずつ自分も「パワーを分けられる」くらいの人になりたいと思っています。

たまごが、死んだ。生理が連れてきた喪失感。

いつからか覚えていないけれど、生理が来るたびに「たまごが、死んだ」と思うようになった。

正確に言えば、生理の日は排卵日の2週間後。だから、生理は「2週間遅れでやってきた訃報」なんだと思う。

 「たまごが死んだと考えるなんて、どうかしているんじゃないか?」と自分でも思う。

妊活や不妊治療している夫婦ならともかく、私は今、妊娠を望んでいない。恋人もいないし、まだ仕事も頑張りたい。何より、自分のことで手一杯で、子どもを育てる準備ができていない。

だから、本当に妊娠を望んでいる人とはちがう。妊娠を望んでいるけれど、子どもができない人たちはこの文章を読んだら、傷ついたり、怒りの感情を抱いたりするかもしれない。

でも、準備ができていないからと言って、体は待ってくれない。

女性が一生のうちに排卵する卵子は480個と決まっているらしい。数に限りがあるし、残りは減る一方で増えることはない。

私の体は砂時計のように、一定のスピードで進んでいる。落ち込んでいても、元気でも、関係ない。砂は、ゆっくりと、確実にすべり落ちていっている。

 心は、そのスピードに、とてもついていけない。

 生理の血を見ると出会うことのなかった新しい命に思いをめぐらせる。「生まれていたら、どんな個性だったのだろう」と一瞬、考えてしまう。卵が、命にならないまま死んでいった。それは、一つの別れなのだと思う。

以前、上野千鶴子の本で、下着と生理の話が書かれていた。

 ”私はいまでも覚えていますけれども、母が私に最初にあてがってくれた生理用ショーツ―生理バンドといっていました―は黒でした。黒というのは喪章にも使われるように穢れのイメージですから、そのショーツを穿くと自分がいま物忌みの最中であるという気分になります。”『スカートの下の劇場』p.56 上野千鶴子,河出文庫、1992年

 この「物忌み」という表現が妙にしっくり来た。私の中で生理は、死者を弔うときと共通するイメージがあった。

だから、私は生理のとき、 静かに過ごしていたい。生理はだるさ、眠気、痛みを連れてくるけれど、体調面だけの理由じゃない。

 私たちは、同じように過ごしていても何かを日々、失っていっている。これは、性別問わずに共通することだけど、生理のときの、真っ赤な血を見ると、それがマザマザと感じられる。

 新しく生まれる命もあるけれど、役目を終えて、去っていく命もあるんだ。

さようなら。

あなたに会える準備ができていない私で、ごめんね。