これからの道しるべ 障害福祉の現場で働く森本しおりのブログ

ADHD当事者が、障害福祉の仕事を通じて見つけた処世術を書きとめていきます。 ジャンル:発達障害、メンタルヘルスなどなど

ほんとうに「早期診断・早期治療」がベストなんですか?

素朴な疑問なんですけど

発達障害の本にはどれも口をそろえて「早期診断・早期治療がベスト」と書かれています。

ほんとうに、診断って早ければ早い程いいんですかね??

診断がまさかの27歳という、「診断が遅かった人」として考えてみます。

 

早期診断でよく言われるのは「二次障害」について

今、発達障害の診断ってとても進んでいて、都市部だと「三歳児検診」とかで見つかることが多いです。

早い人では、1歳とからしいですね。

言葉もしゃべれなくてもいいのか…。

 

障害界隈にいる人はよく

「早期診断、早期治療」って聞いたことがあると思います。

これについては、私はモヤモヤしているのでちょっと整理します。

 

 

「早期診断・早期治療のメリットは二次障害を避けたりできること」

 

何が辛いって、二次障害ですよね。

 

発達障害は生まれながらの脳機能の障害です。それが原因でコミュニケーション上の問題が起きたりしてきます。

うまくいかないこととかが重なって、ストレスが原因で精神疾患を抱えることになることを二次障害と言います。もうちょっと詳しく知りたい方は、調べてください。

 

「早期診断、早期治療」をごり押ししている人たちは、「二次障害を避けるため」という理由が強いと思います。

 

ほとんどの人は、精神疾患について詳しく知らないですよね。

診断を受けていれば、医者にかかることもできます。

診断を受けていないと、徴候を見逃してしまって重症化してから病院にかかる人が多いと思います。

 

重症化していると、当然治るのも時間がかかりますから「早期診断、早期治療」の重要性が叫ばれているんでしょうね。

 

「早期診断・早期治療のデメリットは、守られ過ぎて隔離されてしまうこと」

 

でも、私は「早期診断・早期治療」にはデメリットもあると思っています。

それは「可能性をつぶしてしまうこと」です。

 

いい支援者に巡り合える可能性もそう高くはないですし。

下手な介入、訓練、治療は逆効果を生みかねません。

それは、早期であればあるほど、深刻な影響を及ぼすと思います。

 

「支援者による悪影響」と聞くと、暴力的な人やSOSを出しても無視されることが思いつくかもしれません。

もちろん、施設内虐待とかもありますし、そんな支援者や教育者に出会ってしまったら悪影響は計り知れません。

 

じゃあ、「やさしく応えてくれて、すべて代わりにやってくれる人」がいいのか?というと、そういう人もまた悪影響を及ぼしかねません。

手取り足取り教えてくれて、できないことはやらなくていいよと言われる。

大変な時には、甘えさせてくれる。

「守られた環境」は必要ではありますが、行き過ぎると過保護な親と同じになって本人の力を奪ってしまいます。

 

たとえ、行き過ぎた支援でなくても、医者、支援者、親はどうしても

「ハイリスク・ハイリターン」よりは「ローリスク・ローリターン」な選択肢を子どもに勧めたがります。

 

すごい悪い言い方をすれば、

「守られた特殊な環境の中でしか、生きられなくなる」恐れがあります。

そして「狭い世界しか知らず、他のところを見ることないまま過ごす」可能性が高いです。このデメリットも大きいよなぁと思ってしまうのです。

 

結局「早期診断・早期治療」も万能じゃない

 

私は、「診断も治療も遅かった」ので、その良さも悪さもどっちも味わっています。

遅くなったから、精神疾患が重症化してしまったり、同じような失敗を繰り返したりしてしまいました。

 

でも、遅かったからこそ、健常者の中で過ごしてこられました。

普通に大学にも行ったし、仕事も自分で選びました。総合職として働いたり、正社員としての経験もあります。(うまくいかなかったけど笑)

今も、障害を隠して働いています。

健常者のパートナーと一緒に暮らしています。

これらって、1歳児から「障害者として」育てられていたらけっこう難しかったことだと思います。

 

どういう人たちの中で育ったか、

どういう扱いを受けてきたかって、生きる姿勢やスタンスに影響があると思ってい

ます。

 

 

毒親、アダルトチルドレン、虐待、愛着障害についての本 3選(続編)

毒親アダルトチルドレン、虐待、愛着障がいの本について以前、「現代の精神科編」と題して、4冊を紹介しました。

毒親、アダルトチルドレン、虐待、愛着障害についての本4選 - これからの道しるべ 障害福祉の現場で働く森本しおりのブログ

 

前回の記事では

症状→依存症、ひきこもり

関係性→親しい人との関係が破壊的、誰とも深い関係性が築けない

といった、人向けの本をご紹介しました。

 

継続して読まれている記事なので、続編を書きたいと思います。

今回は【日本の精神科 第二弾】です。

 

摂食障害

『拒食症・過食症対人関係療法で治す』水島広子

拒食症・過食症を対人関係療法で治す / 水島 広子【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア

 

親との関係性に悩む人が抱える症状の一つに摂食障害があります。

この本は、症状が起こるメカニズムや、具体的な対処法、そして対処法がなぜ有効か?といったことがわかりやすく書かれています。

 

著者の水島広子さんは、日本の「対人関係療法」の第一人者の精神科医です。

対人関係療法は、親しい人との関係性や、コミュニケーションのパターンを変えていくことによって、ストレスを減らし、結果的に症状もなくしていくという治療法です。

思春期前後の問題や家族の病理の専門家です。

 

自傷癖、リストカット

『自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント』松本俊彦

『自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント』(松本 俊彦)|講談社BOOK倶楽部

 

自傷癖は、リストカットだけではなくたくさんあります。身近なところでは、髪の毛を抜くのや爪を立てるのもです。ピアスやタトゥも親和性があるといいます。

 

私はこの本の中の「自傷日誌をつけてみましょう」というところがとても役に立ちました。本を読むまでは、自分の「症状」と「症状を引き起こすきっかけ」がつながっていませんでしたが、この本を参考に記録を残していくと段々とわかるようになってきました。

 

著者の松本俊彦さんも、精神科医です。よく専門家としてシンポジウムに出ていたり、インタビューに応じていたりと積極的にメディアに出る印象があります。

 

性的虐待

『子どもへの性的虐待森田ゆり

 

子どもへの性的虐待 - 岩波書店

 

性的虐待は「本人が悪いから性的虐待を受けた」その上で、「本人に汚れてしまったと思わせる」「だから秘密を守らなければいけない」といった、かなり心理的操作の高い虐待です。

 

私は、性的虐待を受けたわけではないのですが、上記の心理操作の部分が参考になりました。これは、やさしく書かれているというよりは、リアルな声を届けているという印象です。あまりにも凄惨で読んでいて苦しい部分もありましたが、その分力強い救いになることもあると思います。

 

著者の森田ゆりさんは、精神科医ではなく子ども・女性へのの暴力防止の専門職養成にかかわっています。DVに関する本を日本語訳したりもされています。

 

悩み別、原因別にまとめると以下の通り

 

毒親アダルトチルドレン、虐待についての本、日本の精神科編第二弾でした。

悩み別に整理すると以下の通り。

 

摂食障害水島広子さん

自傷癖→松本俊彦さん

性的虐待、DV→森田ゆりさん

 

ほんとうは、ルポ編や外国編を書こうと思ったのですが、やっぱり入門編としては現代の日本の専門家が書いたものが一番適していると感じます。

前回で書きそびれた本、新しく読んで勧めたかった本があったので第二弾としました。

 

悩み別で整理しましたが、実はこれらは繋がっていることもあります。

性的虐待の被害者は、罪悪感や不安感を抱えて自傷癖や摂食障害になることもあります。

 

「自分は自傷癖だけ解決できればいい」という方でも、他の症状の本を読んでいて共通する心理があることに気づくはずです。根本には「満たされなさ」や「人に理解してもらえない」という思いや「自分がいけないんだ」という思いがあります。

 

私は読んでいて「いつ、摂食障害になっていてもおかしくなかったな」とか「自傷の一歩手前のところにいたな」と思いました。

 

苦しい最中にいると、本を探すのも大変です。

私が読んで、「良心的で、ためになるな」と思った本だけ紹介していますので、

参考にした方が少しでも、楽になるといいなと思います。

 

見守り育てることと、監視し管理していくことは紙一重

仕事をしていると、思わず首をかしげたくなる瞬間があります。

「これ、余計なお世話じゃない?」

「成長の機会を奪っていない?」

 

どこまで手出し、口出しするかは段階がある

福祉の仕事には、どこまで手出しをするのかの段階があります。

もっとも重い人は、全介助。これは介助者が代わりに全部やることです。

次は、半介助。半分本人で、必要なところは手伝います。

次は一部介助。基本的には見守ります。危ない時やわからない時だけ手伝います。

最後は自立。見守りも要らない人です。

 

ほとんどの福祉サービスを使う人は

「半介助」か「一部介助」が必要な人です。

でも、ほとんどの人が手出し、口出しをしすぎな気がします。(私も含めて)

 

たとえば、工作の時。

ハサミをザクザク使っていて、危なっかしい子がいると「ハサミと紙の安全な使い方」を教えます。

でも、「ハサミを他人と使うの」って相当ストレスフルだと思います。

切りたいように切れないし。

 

私は、「いや、放っといて怪我しながら学んでいきゃいーじゃん」という気がしてしまいます。

自分の指をちょっと切っちゃうくらい、なんてことない。

他の子の目に入りそう、とかはマズイですけどね。

 

ただ、福祉サービスだとなかなか、怪我をさせられないんです。

虐待を疑われてしまったりしますし。

でも、失敗や怪我って成長していく上で必要不可欠だと感じています。

 

失敗させないで、代わりにやってしまう方が楽

 

あらかじめ「こっちが、失敗が少ないよ」

「怪我しそうだから、やめておきな」と言うのは一見、優しい人に見えます。

 

でも、本人の力を信じていないということでもあります。

たとえ、失敗してもこの人は乗り越えていけると信じられれば、

わかってても口出し、手出ししないってこともできます。

 

塩梅がとてもむずかしいです。

だからといって、本人に任せて失敗が増えて自信を無くしてしまうのもよくないですし。あまりにもストレスが溜まると、病気として現れることもありますし。

ストレスが病気の症状として出てきたら、多少キャパシティオーバーだと思います。

 

理想的なのは

「ちょっとがんばればできる」レベルの挑戦です。

「がんばってもできない」を乗り越えることも、どこかで必要ですが。

日々の中で「全然できない」や「やってもらえばいいや」の姿勢がついてしまうのも考え物です。

 

最後に一つだけ。

私が感じたのは、「本人にとって必要だから」ではなく「見ている方が不安で耐えられないから」と手出し口出しするのは、よくないなということです。

見ていると、どうしても先が予想できて心配になることがあります。

 

でも、だからと言って、全部管理しようとすると本人の自主性まで奪ってしまいます。

「自分の不安が原因で、厳しく管理をしようとしていただけか」と認められれば、

少しずつ手を放していけるように思うのです。

 

厳しい管理は、関係性も、本人の力も壊してしまいます。

 

【ブックレビュー】『兎の眼』を読んで考えた、障害児教育について

昔から、「教師モノ」のドラマや本が嫌いでした。押し付けがましく、熱血漢な教師というものに対する反発から来ていたのだと思います。大学では教育学を学ぶも「学校教育が好きになれない」と思って教師にならなかった私は、無意識のうちにすべての「教育に関する本」を避けてしまっていました。

 

そんな私が2018年前半に読んだ47冊の中で、でもっとも感動したのは

灰谷健次郎の『兎の眼

 

ひねくれた私でも思わずブックレビューを書いてしまうくらいの衝撃がありました。

 

合理化、効率化とまったく逆のことが書かれている『兎の眼

 

ここからは、若干ネタバレの要素があるので、本を先に読むことをおススメします。

 

主人公の小谷先生は新任の女性教師。医者の家に育ったお嬢様育ちだった小谷先生は、教育現場に出てはじめて、自分の知らなかった世界の人々と出会います。

 

ゴミ処理場の近くで暮らす子ども達、ハエをペットとして飼う鉄三、下町の子ども達から慕われている足立先生。今までの自分の価値観を問い直し、全力で子ども達と向き合っていく成長物語です。

 

物語の中盤で、障害児と思われる子どもが出てきます。

養護学校に転校する前の1ヶ月間を、ふつうの学校で過ごすことになったみな子です。

 

みな子は話すことができません。座って授業を受けることもできません。いつもフラフラして、うれしいことがあると走っていってしまいます。みな子の走るの姿はまるでクラゲのよう。排泄も自立していないので、あわててトイレに連れて行っても失敗してしまうこともしばしばです。

 

そんなみな子を置いておくと、他の子の授業の妨げになると保護者からクレームが入ります。それでも小谷先生は、負けません。やがて、周りの生徒たちに変化が現れてきます。その変化を見た、保護者の発言がとても感動的です。

 

”日がたつにつれて、わたしは自分の子どもがすこしずつかわっていくのに気がついたのです。ひとのことなど知らん顔していた子が、他人のことでなやむようになり、考えるようになったのです。気がつくと、おとなでも手をやくようなたいへんなせわを、なんと一年生の子が、先生のかわりにやりとげていたんです。(…中略)

 

一部の子どものためにみんながめいわくをこうむる、わたしたちははじめそう考えていたのです。しかし、それはまちがいでした。よわいもの、力のないものを疎外したら、疎外したものが人間としてダメになる、処理所の方たちの要求はわたしたちの要求として、処理所の子どもたちのたたかいはわたしたちのたたかいとして考えていかなくてはいけないと思います”

兎の眼灰谷健次郎,p.250 新潮文庫 1984

 

実際の現場でも、トラブルを起こす子を「足を引っ張る子」として嫌がられる傾向はある

 

今は、障害のある子どもと、健常児との交流を促進する動きがあります。

帰りの会だけ、健常児のクラスに行ったりしているのです。

 

ただ、理想とはウラハラに両者の溝は深く存在していると感じます。

溝は、健常児と障害児との間にあるだけではありません。障害のある子同士でもあります。

 

私の働く放デイでは、障害の軽い子から重い子まで一緒のクラスで過ごします。

ただ、どうしても障害の軽い子は軽い子同士でくっつきます。

 

障害の軽い子は、障害の重い子がオムツを使っているのをからかったり、上手くしゃべれないことの真似をしてからかうことがあります。

 

障害児を集めても、その中でもいじめってあるのです。

きっと、どうやって分けても「その中になじめない人」って出てきてしまって、その人が排除される動きってあるのだろうな、と思います。

 

動きが遅い、勉強ができない、言葉が使えない、排泄を一人でできない。作業が遅い。

「できないところ」を挙げては、周りに「めいわくをかけている」と責められてしまいます。

 

兎の眼』では、それを切り離して排除せよ、という動きに真っ向から反発します。

それは、わたしたちの一部なんだと。

 

ゴミ処理所に関しても同じです。「ゴミというもんはもともと、ひとりひとりの人間、ひとつひとつの家庭から出てくるもんです。…(中略)もともとは自分が出したゴミだということをいつでも頭においとかんと、人間は勝手なことばっかりいうようになりまんな。」(p.288 同上)

 

より速く、より効率よく、より清潔に、完璧に。追及していくと、不快なものを集めて、切り離して遠ざけることになります。そして、目に見えないところに追いやって、忘れるのでしょう。

 

ものごとの暗い面もしっかり、見つめていきたい

 

灰谷健次郎の作品を読むと、いかに私たちが普段「踏みつけておいて、忘れている存在があるか」を感じます。もっと言えば、私たちの生活は誰かの犠牲で成り立っています。

 

昔、父に

「どうして、障害福祉なんてわざわざ暗いところに関わるの?」と聞かれたことを思い出します。

 

兎の眼』に出てくる子どもたちを好きでいたいし、その子たちと一緒になって頭を抱えて、一緒になって面倒なことや嫌なこともやっていく。そういう姿勢を、忘れずにいたいものです。

 

「お金にこだわりたくない」という、捉われがあった

今思うと、「新卒の就活時に、給料欄をまったく見ずに応募していたのってかなり特殊だったんじゃないか?」という気がします。

 

「お金のこだわりがある人」と聞くと、お金がほしい人と想像されると思います。

私は逆で、「お金にこだわりがない自分」に対するこだわりがありました。

もっと言えば、お金について口に出すことにためらいがあったし、深く考えることが怖さ、後ろめたさ、罪悪感がありました。

だからこそ、私にとって

「お金とは、ブラックボックスの中に入っていてよく見えない」部分でした。

 

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子どもの興味の幅を広げてくれる大人

 

ちょっと前にBooks&Appsで読んだ記事を思い出しました。引用させていただきます。

 

”人によっては、「子どもの前でお金の話は絶対しない」なんて人もいます。

なんというか、性の話と同じように、お金の話を軽いタブーのように扱っている親御さん、ちょくちょく見受けられるんです。あまり触れてはいけない話題、触れることが道徳的に忌避される話題。”

お金なしで生きることは出来ないのに、子どもの頃にお金のこと教えないでどうするんですか | Books&Apps

 

うちは典型的な「お金の話を軽いタブーのように扱っている」家でした。

「お金の話をあからさまに口に出すことは、いやしいこと」といった雰囲気がありました。

これは、もったいなかったなぁと感じます。

ちなみに、「暴力シーンが多い映画」や性の話題も禁止されていました。

口に出してはいけない話は多い家だったと感じます。

 

みんなお金についてって、どういう教育を受けるのでしょう?

 

私が「こういうお金の教育はとてもいいなぁ」と感じたのは、

 

君たちはどう生きるか』の中で、「粉ミルクはどうやって、自分の手元に届いたのか?」を考えるシーンです。

 

”僕は、粉ミルクが、オーストラリアから、赤ん坊の僕のところまで、とてもとても長いリレーをやって来たのだと思いました。工場や汽車や汽船を作った人までいれると、何千人だか、何万人だか知れない、たくさんの人が、僕につながっているんだと思いました。”

君たちはどう生きるか』p.86 吉野源三郎 岩波文庫

 

この手紙に対する返信がすごくいいのです。

 

”僕はあの手紙を読んで、お世辞でなく、本当に感心した。自分であれだけ考えていったのは、たしかに偉いことだと思った。

…(中略)

実は、コペル君、君が気が付いた「人間分子の関係」というのは、学者たちが「生産関係」と呼んでいるものなんだよ。―人間は生きてゆくのに、いろいろなものが必要だ。そのために、自然界にあるいろいろな材料を使って、いろいろなものを作り出さなければならない。”p.90 同上

 

 

この部分を選んだ理由は、

「子どもの気づきを大人が受け止めた上で、膨らませている」からです。

 

子どもは色々なことを疑問に思います。

「どうして、同じものなのに値段がちがうの?」とか

「なんでこれを今買えないの?」とか。

 

もうちょっと大きくなって、中学生や高校生になったらニュースを見た時に

「消費税が上がるってどういうこと?」とかも、きっかけになります。

 

そうした疑問を解消するのは、子どもだけでは難しいです。

その疑問について一緒に考えてくれたり、つながっている新しい知識をさずけてくれたりする大人がいるのといないのとでは大違いです。

 

つまり、興味の幅を広げてくれる大人がいると

子どもは罪悪感を感じることなく、強制されることもなく学んでいけると感じます。

知っていくことは、楽しいと感じられるのは、財産です。

 

両親のお金へのスタンスは、子どもに伝わる

 

究極は、お金についてネガティブなイメージがなければそれが一番かもしれません。

毎月請求書が来る時期にため息をついていたり、イライラして夫婦喧嘩をしている家庭と、

お会計の時に気持ちよく「ありがとう」とお礼を言いながら支払をしている家庭では、子どもの中での「お金」のイメージが変わってくるはずです。

 

稼ぐことについても、

 

サラリーマンで毎月決まった日に一定額の給料が振り込まれる人と

自営業で収入に波がある人では捉え方が変わってきます。

 

私の家は、お金についてブラックボックスに入っている状態でした。

疑問はそのままブラックボックスに吸い込まれていく。

 

悪い影響を受けるよりはよかったかもしれません。

よく言えば、現実的な困難から「守ってくれていた」家です。

 

ただ、私自身もきちんと考える機会が失われていたように感じます。

大きくなってからは自己責任の部分も大きいですが、今でも

お金のことを口にするのはとても苦手です。

 

ちゃんと管理できるようになるまでに、かなり痛い目に会いました。

今でもきちんとできているとは言い難いですが、

以前持っていた

「漠然としていたお金への恐ろしいイメージ」

「賃金をもらう時の、妙な罪悪感」や「支払をする時に、あまり深く考えないようにしよう」といった避ける傾向は少しだけ意識できるようになりました。

 

あなたは、お金に対してどんなイメージを持っていますか?

「お金をたくさん欲しい」以外にもこだわりはあるはずです。

「あまり考えないようにしたい」とか「ケチケチしていると思われたくない」「お金よりも大切なものがある」というのも、行き過ぎると捉われになる可能性があります。

 

 

 

 

劣等感と優越感は半径5m以内の人間関係で作られるのではないだろうか?

昔、医大生の友人がいたんですけど、この人がまぁびっくりする程、コンプレックスの塊だったんですね。

何のコンプレックスか?というと「俺は勉強ができない」なんですよ。

 

どんだけーーー。

古いですね、世代がばれる。

 

いや、もう「・・・えっ?これって、遠回しな自慢なのかな?私、馬鹿にされてんのかな?」て思ったんですけど、よくよく聞いていくと、彼は本気だったんですよ。

 

このことをきっかけに

「コンプレックスって、絶対評価じゃなくて相対評価で作られるんじゃないだろうか?」と思うようになりました。

 

「自分は頭がいい」と思っていた、学生時代

「嫌な奴」と思っていただいて構わないんですが

私は自分のことを「頭がいい」方だと思っていました。

そのことを、あまり疑ったこともありませんでした。

 

理由は、クラスの中でいつも成績が良い方だったからです。

学校も県内でそれなりに有名な進学校でした。

調子に乗っていた私は「そんなに頑張らなくても、勉強ってできるじゃん」と思っていました。

大学受験の時も、そこまで高い目標がなかったのもあり、受験した大学ほとんど全部受かりました。

 

「こいつ!死ねっ!」と怒りを覚えるかもしれませんが、十分後で痛い目にあっています。この勘違いのツケは後で当然払わされることになりました。

 

「自分の限界まで挑戦しなかった」ことで、「やればどこまでもできる」気がしていたんです。当然「頑張ってチャレンジしてもできないこともある」という経験を社会に出てからして、大きな挫折をしました。

 

「自分は頭が悪い」と思っていた医大

 

大学の時にバイト先で知り合った医大生は「自分は頭が悪い」と信じていました。

 

理由を聞くと「頑張っても、クラスの中でいい成績が取れない」からでした。

どうやら、彼は血のにじむような努力をして、実力よりも上のランクの高校、大学に受かったみたいでした。

 

だからこそ、どれだけやってもいつも成績は下から何番目か。

「真面目そうに見えるのに、案外成績が悪い」と言われ続けていたようです。

大学では赤点をとって再試を受けたり、留年の危機に直面したりしていくうちに

「自分は頭が悪い」と思うようになっていました。

 

私はとても不思議でした。

 

どう考えても、私よりも頭がいい人が「自分は頭が悪い」というコンプレックスを抱えている。

「世の中の平均から比べたら、そもそも医学部に入れること自体、頭がいいんじゃないの?」と聞いてもまったく納得しません。

それはそうです。比べる対象は、「受からなかった人たち」ではなく「今、目の前にいるクラスメートたち」ですから。

 

この一件があってから、私は

「劣等感や優越感って、身近な人間関係で作られるのではないだろうか?」と思うようになりました。

 

狭い世界で生きている人たちは「世の中の平均」や「客観的視点」を持っていない

 

井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。

小さな井戸に住んでいると、大きな海を知らないことから物の見方や考えが狭いことを批判する時に使われます。

 

子どもの頃は、自分の周りが世界のすべてです。

コンプレックスの起源は兄弟との比較や、広がってもクラスメートとの比較であることがほとんどだと思います。

また、優越感も逆に狭い世界で作られます。

 

大人になるにつれて、所属するコミュニティが増えたり、色々な価値観に触れたり、多様な人に会ったりすることで、少しずつ「自分の知っている世界は狭かったんだ!」と気づきながら、広げていくものだと思います。

 

私の「自分は頭がいい」というのは勘違いでした。

後から考えると、学校の勉強やテストに向いていただけでした。それも、かなり環境の力が大きかったと今ではわかります。発達障害の人には、こういう人、多いみたいです。

 

社会に出て仕事をはじめると、私は想像以上に仕事ができませんでした。「自分の能力の限界は大したことない」という現実をつきつけられても、なかなか受け入れられずに頑張ろうとしてすぐにつぶれました。つぶれてからは「大したやつじゃないんだなー、自分」と思えるようになりました。

 

つまり、勘違いの優越感は社会に出た途端に転落したのです。

 

違うコミュニティに行き、周りの人たちが変われば自分の評価も変わるものです。

ただ、一つ言えるのは、周りとの比較に一喜一憂していると振り回されるだけだということです。

周りが評価することと、自分が自信を持てることは、重なる部分もあるかもしれませんが、完全に一致することはないと思います。

 

自分が、過去の自分と比べてどれだけ変化していけるのか。

そのことを考えると、思いつくのは野球のイチロー選手です。

 

イチロー選手はいくら大きな成果を出しても、そこに留まろうとはしていません。

メジャー通算3000本安打を達成した時のインタビューから少し引用させてもらいます。

 

”これは皆さんもそうですけど、これだけたくさんの経費を使っていただいて、ここまで引っ張ってしまったわけですから、本当申し訳なく思ってますよ。それはもう、ファンの人たちの中にもたくさんいたでしょうし。

そのことから解放された思いの方が…、思いの方がとは言わないですけど、そのことも大変大きなことですね、僕の中で。普段そこにあった空気が、なんとなく乱れてたっていうのも感じていましたし、明日から平穏な日々が戻ることを望んでいます”

3000本の記録に固執せず、明日からも野球をする。

毎日の、チャレンジに戻っていく。

こういう、精神でいられたらいいなぁと思います。

 

必要なのは

人より優っているからということを根拠にしている優越感ではなく、

自分が挑戦を積み重ねていく中で作られる自信じゃないかと思います。

 

暴力への対応は、風の谷のナウシカをお手本にしたい

みなさん、映画の「風の谷のナウシカ」を観たことがありますか?

あらすじはこちら。

 

”アニメ雑誌「アニメージュ」誌上に連載されていた宮崎駿の同名漫画の映画化。宮崎駿監督自身が、監督、脚本を務めた。高度な産業文明を破壊させた「火の七日間」と呼ばれる大戦争から1000年。人類は巨大な虫や、毒の森・腐海に脅かされながら生きていた。辺境の小国「風の谷」の族長の娘、ナウシカは、人間同士の争いに巻き込まれていく。”

風の谷のナウシカ : 作品情報 - 映画.comより抜粋。

 

 

ここから先は「ほぼ全員が観ているよね?」というテイで書いていきます。

ナウシカとテトとの出会いのシーンを思い出してほしいんです。

ユパ様が王蟲に追われているところを、ナウシカ王蟲の怒りを鎮めて助けますね。それで、ユパ様の服の影からテトが出てくる。

 

テトは最初に出てくる時、猛烈に威嚇をしています。逆毛を立てて臨戦態勢です。

ナウシカはそれでも近寄っていくじゃないですか?

そこでユパ様が止めますよね。

「キツネリスは人には懐かない。」と。(ちなみに原作を確認しながらではなく、記憶をもとに書いているので、若干違う箇所があったらごめんなさい。)

 

それでも、ナウシカはひるまない。

キツネリスはナウシカの手に噛みつきます。

 

血が滴り出る。

けれど、ナウシカは動揺しない。

「怖くない、怖くない・・・」と心の中で言いますよね。

 

そこで、キツネリスは少しずつ落ち着いてくる。そして、悪いことをしたと思うのか、自分が噛みついた傷痕をなめます。

 

ナウシカは、その後キツネリスをテトと名付けてずっと行動を共にすることになります。

 

このシーン、すごくないですか?

人になつかないと言われているキツネリスの心を開かせてしまうナウシカ、何者?

 

周囲を攻撃するのは、「こわいから」ということもあるのかもしれない。

ボーっと、仕事中に子どもに噛まれた傷痕を観て、ナウシカのことを思い出しました。

 

障害福祉の世界では、よく「自傷・他害」という言い方をします。

自傷は、そのまま自分を傷つける人のことです。頭をガンガン壁に打ち付けたり、自分を自分でなぐったり、ガリガリ血が出るまでひっかいたり、自分で自分の手の甲を噛んだりする人はけっこういます。

 

他害は、周囲の人に噛みついたり、引っ掻いたり、つねったり、殴ったり。暴力をふるうことです。髪の毛を強く引っ張ったりすることもあります。

 

私の職場でも、何人か他害のある子がいます。

なんか、見ていてせつなくなります。他害をする子は、フラストレーションを適切に発散する手段を身に付けていないです。

 

他害をするから、周囲の子から避けられる。避けられるだけでなく、悪口を言われたりするのも感じている。遊べる仲間がいなくて孤独になる。他の子と接触できる手段は、暴力しかない。そういう子もいます。負のループです。

 

テトじゃないんですが、「自分の身を守るために暴力をふるう」ってあると思います。

その人に対して暴力で応戦してはいけないし、力や脅しで制圧するのも違うんじゃないかなって気がします。

 

見ている側は、動揺してしまいます。

 

つい、暴力をふるった方を怒りたくなります。なんなら仕返ししようとしている子の気持ちもわかります。

でも、それだと永遠に終わらないですね。

 

ナウシカのような態度ってすごく大切だと思いました。

ナウシカって、動揺しないんです。いや、正確には感情は揺さぶられてもその場では表さない。

 

自分が攻撃された時に「怖くない、怖くない」ってなかなかできないです。

ナウシカは、小さい動物が相手だからではなく、どんな場面でも同じ態度です。

 

風の谷のナウシカの漫画には、他にも「自分が攻撃されても、動揺しない人」が出てきます。

僧正様、ユパ様・・。

争いの応酬を止められるのって、こういう人なのかなと思います。

静かに物事の成り行きを見つめ、受け入れる。

力や権力に屈せず、脅しが効かない人。

自分の信念を持った人。

 

最後は、ユパ様の名言で締めます。

「すすめ、いとしい風よ。」