これからの道しるべ 障害福祉の現場で働く森本しおりのブログ

ADHD当事者が、障害福祉の仕事を通じて見つけた処世術を書きとめていきます。 ジャンル:発達障害、メンタルヘルスなどなど

発達障害の人はひな壇芸人にはなれないけど、ユーチューバーにはなれそう。

コミュニケーションのスタイルについて話をします。

 

唐突なんですが、「発達障害のユーチューバ―っていそうだな」と思いました。

検索したら、やっぱりけっこうな数いるみたいです。

人気のユーチューバーのランキングで入る位の人はいないかもしれませんが・・

少なくとも目指す人は多そうです。

 

集団の中にいると、参加できないか、仕切りすぎて独壇場になってしまう。

 

私もたしかに身に覚えがあります。

教育実習に行った時に、なんというか、「教室があたたまる」「みんな身を乗り出して参加する」みたいな状況にはならなかったです。

 

教育実習って、最後に「研究授業」というのをやるんです。

ズラッと学校の先生みんなが見に来る、授業の発表会みたいなやつです。

 

授業を見た教頭先生は言ってくれました。

「授業の完成度としては高いと思うよ。すごく準備をしたのもわかる。だから、授業単体で見るなら、90点だ。」

 

「でも、君は公立の学校の先生には向いていない。」と言い切られました。

 

「公立の学校というのは、クラスの学力の低い子に合わせないといけない。

君の授業質問をしても、答えたのは同じ子だったろう?

頭の回転が速い子しかついてこれない。

あの子たちが一生懸命、協力してくれたから成り立ったんだよ。

 

君の授業は、塾の先生の授業だね。」と言われました。

 

ああ。そうなんだろうなぁと腑に落ちました。

 

 

たしかに、巻き込む、みたいなことができないんです。

バーッとしゃべり続けて、黒板を書き続けることしかできなかった。

 

たくさん質問をしても

シーン・・となっちゃいました。

だから、一部の生徒が協力してくれたんでしょうね。

 

今でも覚えているけれど、

協力してくれたのは、それまでは一番悪態ついてきて嫌味ばかり言ってきた男の子でした。

でも、研究授業の間は一回もふざけないで、手をあげて正解を言ってくれました。

 

「少女漫画のヒーローかっ!」って感じですが

本当にジーンときました。

あれ、目から汗が・・。

 

手紙で「いい先生になるよ」って書いてくれたのも、忘れられません。

 

 

不得意な所で勝負しない。なるべく対処法を探す。

 

ちょっと話がそれました。

きっと、芸能人になりたいと思っても、ひな壇芸人にはなれないと思います。

他の人のやりとりを把握して、うまくみんなで笑わすみたいな。

多分、発達の人は会話に入れなかったり、

入らなきゃと焦って、衝動的な発言をして誰かを不快にさせちゃったりすると思います。

 

それに比べると、ユーチューバ―は相性としては悪くなさそうな気がします。

 

ただ、観る人あってのもので、人気次第の商売はやっぱり、相手の気持ちがわからないとだめですかね。

目の前の相手の表情とかが読めない人が、目の前にいない「見てくれる人」に伝わるものを作るのってむずかしそうです。

 

ユーチューバ―うんぬんは、まぁ思いつきなんですけれど。

 

自分のコミュニケーションの得意な状況と、不得意な状況を知っておこうって話です。

大人数の飲み会でうまく参加できない、もしくはでしゃばり過ぎちゃうのは、やっぱりそのスタイルが合ってない部分もあると思います。

不得意とわかれば、また対処法もありますし。

 

自分は、台本さえあればやれるんだーとか

間に補助的な道具(黒板とか)がある方がいいんだーとかは

わかっておくと、案外のちのち応用がきくこともあります。

 

 

 

愛着障がい モフモフのぬいぐるみや毛布のはなし

みなさん、小さい頃ぬいぐるみは好きでしたか?

 

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私、いまこの「海の生き物」シリーズのメンダコがほしいんですよ。

www.bleubleuet.jp

すごーいゆるくてかわいくないですか?

絶妙に肩の力がぬける。

 

小さい頃、みなさん好きなぬいぐるみや手放せない毛布はありましたか?

有名なのは、スヌーピーのライナスですよね。

毛布を持っている姿を見たことがある方も多いはず。

 

心理学的には、「移行対象」と呼ばれています。

移行対象という言葉を生み出したドナルド・ウィニコットは次のように述べています。

 

「そして、それらは幼児にとって眠りに就くまでのものとしてきわめて重要であったり、不安特に抑うつ不安に対する防衛であったりするのである。

…(中略)

この対象は重要性をもち続ける。両親はその対象の価値を知るようになり、旅行の時にも持って歩くようになる。というのは、それを洗ってしまうと、幼児の体験の連続性に中断が起り、その対象が幼児に対してもつ意味と価値を破壊してしまう中断を生じさせるからである。」

 

まぁちょっとむずかしく書いてますけど、

移行対象は、「安心できるもの」です。ウィニコットはぬいぐるみ、毛布などの触れるものに限らず「口をもぐもぐさせること」などのクセも移行対象に含まれると書いています。

 

私、テレビで芸能人の部屋とかを観て驚いたことの一つに

「ぬいぐるみをベッドに置いている人が多い」ということがありました。

特に今でも忘れられないのはmisonoの部屋。

 

ぬいぐるみで覆い尽くされていたんです。

検索すれば画像も出てきます。

misono 部屋 - Google 検索

 

逆に、私は小学校の頃からぬいぐるみとかしまいっぱなしでしたし、

高校生になったら全部捨てちゃった気がします。

「どうせ飾らないし」って。もはやちゃんと覚えてすらない。

 

捨てた時に、罪悪感があったことと、自分の冷徹さがちょっと怖くなったのは覚えています。

 

当時、トイストーリーがすごく流行っていたのと、

梨木果歩の「りかさん」という、人形が魂を持つ話の本が好きでした。

だから、「人形に魂がやどる」は多少、信じていたんです。

 

「どうして自分はぬいぐるみに思い入れを持てないんだろう?」と疑問に思ったのを覚えています。

 

 

 

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misonoの部屋を観た人はみんな、多少ゾッとしたと思います。

ぬいぐるみって部屋に大量にあると、やっぱりちょっと怖いです。

背筋がうすら寒くなる感じがします。

心の闇をのぞきこんでしまった気分になります。

やっぱり、不安が強い人ほどぬいぐるみを持ちたがる傾向っていうのもあるのではないでしょうか。

これは心が成長していく上で通る道です。

ただ、大人になってもずっと大量に持ち続けるというのは、ある意味で心の成長が止まっている部分もあるのかもしれません。

 

逆に、私のように「好きなぬいぐるみ」が子ども時代から一貫して持てなかったというのも、だいぶ問題な気がしています。

さわっていて安心するとか、よくわからなかったです。

 

弟はいつも同じ毛布を持ったりぬいぐるみを持っていたので「不思議なやつだなあ」と思っていました。

 

でも、今となっては弟の方がはるかに健康に育っていたのだとわかります。

 

「あなたの大切なぬいぐるみについて教えて下さい」と聞けば

愛情の在り方や、不安について知ることができる部分があるのではないでしょうか。

 

 

心の奥底をのぞいちゃうかもしれませんけど。

 

 

 

 

 

「人は変われるのか?」という問いに対する答え

先日「まだ自分は変われると思っているんだ?」と吐き捨てるように言われて、頭をぶん殴られるような衝撃でした。あまりにも根本的すぎて、意識をしたことがなかったのです。

 

「人は変われるのか?」

 

私は、福祉やライターの仕事において、変わるためのよりよい方法やタイミングを探したり考えたりすることばかりしていたので「人は変われる」ことなんて、大前提すぎて疑ったこともありませんでした。

 

「え、そんな前提のひっくり返し方もあるの?!」という新鮮な驚きでした。でも、言われてみれば当然で、「変われないと思っている」人もいるでしょう。そもそも、自分は何故変われると思っているのか?この問いに対する自分なりの答えを書いてみたいと思います。

 

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人は変われるのか?の答えはニーバーの祈りにあり 

突然ですが、「ニーバーの祈り」って知っていますか?

 

“神よ、私に変えねばならないものを変える勇気を、

どうしようもないものを受け入れる静穏を、

そして、それらを見分ける洞察力を与えて下さい。“

 

アメリカの神学者のラインホルド・ニーバーのこの言葉は、依存症の自助グループなどで採用されて、広く知られるようになりました。私はキリスト教信者ではありませんが、この言葉を知った時、すごく印象に残りました。

 

当たり前と言ってしまえばそこまでですけど、この言葉のように人は「変えられる部分」と「変えられない部分」があります。

 

「人は変われない」派の中には二種類の人がいるのではないでしょうか。まずは、リスクを恐れて大きな挑戦をしない人です。そもそも、社会適応をしている人達は大きく変わる必要はありません。うまくいっている時にリスクを避けるのは、賢い安全策と呼ぶこともできます。その人達の目には、リスクをとって挑戦する人達は自分達の安全を脅かす存在に映ることもあるでしょう。

 

 もう一方は、変わるための挑戦をしたけれど失敗した人達。挑戦は失敗のリスクもあります。本来なら、失敗をした時に現実を受け入れられるのであれば、そこまで大きなダメージにならないと思います。

 

ダメージを引きずるのは、失敗したことが認められない人です。失敗して「そもそも挑戦しなければ、こんな失敗もなかったのに」と後悔する人もいるでしょう。何回も失敗をして成功体験を持てなかった人も「人は変われない」と思うではないでしょうか。ただ、この中には「変えられる部分」と「変えられない部分」を見分けられていない人が多いと思います。

 

そもそもの原因を見ていくと、「それって、実現がむずかしいんじゃないの?」という願望を実現させるために挑戦をしている人もけっこう多いと思います。自分の願望を叶えてくれるような理想の人との結婚を夢見続けているとか。今はつまらない仕事ばかり与えられているからやる気にならないけれど、自分の実力はこんなもんじゃないからいずれ大きな仕事をやってやるんだとか。

 

叶わない夢に執着しているうちは、「努力なんてムダ」と感じてしまうかもしれません。変えられない部分での努力は、負のスパイラルのもとです。どれだけ色々試しても同じ結果になってしまいます。それが続けば自信を無くします。期待と失望を繰り返して、「自分は何をやってもダメなんだ」と全般的に諦めモードになるのも無理はないかもしれません。

 

でも、本来なら「変えられる部分」もあるはずです。「人は変われる」派の人も、失敗したから「人は変われない」派の人もみんな最初は、無謀な挑戦をしているはずです。他人から止められても、自分の目で見て確かめないと気が済まなかったのではないでしょうか?「変えられるものを変える勇気」を持っていたのではないでしょうか?

 

うまくいかない時に現実を受け入れられるかどうかで、その後が変わっていきます。言い方を変えれば、「どうしようもないものを受け入れる静穏を」持つことができるのかということです。現実を受け入れて、修正して、再挑戦していく。いわば、トライアンドエラーの連続により、洞察力は養われていきます。

 

じゃあ、「人は変われる」派の人達は何を根拠に、変われると信じているのでしょうか?根拠なんてないけれど、そう信じたい人もいるでしょう。周りの影響力のある人達が「変われる」と力強く言っているから、そうなんだろうなと思っている人もいます。周りに劇的に変化した人がいたのかもしれません。一番、力強く「人は変われる」と言う人は、自分が挑戦を重ねて、成功体験を持てた人ではないでしょうか?自分の経験をもとに、他人のことも予想するという意味では「人は変われない」の人達と共通するところがあります。

 

「まだ、自分は変われると思っているんだ?」という質問をされた時、「人は変われる」という想いが自分の中にあると気づきました。昔からぼんやりと持っていた考えが、自分の経験によって、強化されてきました。

 

 

もしかしたら、私はまだ変えられないものと変えられるものを見分ける洞察力がないから、これから先どうなるかワクワクしているのかもしれません。でも、どこが変わってどこが変えられない部分かなんて結果でしかわからない、と思うのです。

 

「子どもが言うことを聞いてくれない」「遊ばれてしまう」と悩む先生に送る言葉

「私、今日来ている子ども、誰も動かせなかった・・・」と一日の終わりに落ち込んでいるA先生(仮名)がいました。

 

たしかに、福祉の世界では

「手ごわい利用者(子ども)を動かせる人=有能な職員」という雰囲気があります。でも、この言葉を聞いた私は少し違和感を覚えました。少し掘り下げていきたいと思います。

 

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福祉の仕事を始めた頃は、必要とされなくて傷つくことがたくさんある

私が福祉の仕事を始めたのは、約4年半前ですがポキっと鼻っ柱を折られる瞬間の連続でした。今回は、子どもを例にあげます。

 

たとえば、「遊ぼう」と誘っても、拒否されて「○○先生遊ぼうー!」と別の先生のところに逃げられてしまうとか。

子どもが別の子に暴力をふるうなどの場面を見かけて、注意してもちっとも言うことを聞いてくれないとか。無視されるだけじゃなくて、しゃべり方を真似されるなどの挑発的な態度をとられたりします。

 

こういう時に、ベテランの先生の一言は効くんですよね。「○○君?」と名前呼ぶだけで、ピタッとふざけているのやめたりします。

 

毎日が「え・・・私じゃダメですか?」の連続です。

先生がたくさんいても、子どもの人気って集中するので、一人は引っ張りだこだけど自分は話しかけても、相手にしてもらえなかったりします。

余るんです。ポツンと。

「あれ、私、誰にも必要とされていない・・?というか、むしろ邪魔?」と思っちゃいます。

 

追い打ちをかけるように、職員からも

「足元見られてるね」とか「人を見てやっているからね」とか言われます。要は、あなたナメられてますよって言われます。ちゃんと仕事してよ、使えないなという無言のプレッシャー。泣きっ面に蜂です。

 

当然、落ち込みます。

「何かしてあげたい」思いが強い人ほど、ガクッと来ます。

自分の人望のなさ、信頼関係を築く能力のなさをここまでマザマザと見せつけられる機会ってあまりないと思います。

 

子どもの目線に立ったら「子どもを動かせない」という感想は出てこないはず

だから、落ち込む気持ちはわかります。

でも、一日の終わりの感想が「誰も動かせなかった」で止まってしまうのはマズイと思うんです。大人の都合や、他の職員から見た自分の評価しか見えてないことを告白しているようなものです。

もっと言えば、子どもの目線で考えられていない。

 

「誰のことも」って言うけど、多分一人一人違う事情があったはずです。それを、まとめて言うことなんてできません。

 

その子は何を好きなのか?普段から、何に興味がある子か探っていますか?

何が苦手で、どんなフォローがあればスムーズに動けるのかわかった上で、接してますか?

逆に自分で全部やりたい子なら、ちゃんと本人のできる部分に手出しせずに任せておきましたか?

 

子どもは、大人の思い通りには動かない

子どもを自分の思い通りに動かそうとしても、できません。

 

できるのは、こちらの要求を相手にわかる形で伝えることです。

それが拒否されるのであれば、どこがダメなのか?相手の要求も聞きます。

お互いの折り合いをつくところを探って、合意をとりつけるのです。

その繰り返しじゃないかな?と思います。

 

だから「誰のことも動かせなかった私」が主役じゃないんです。

「どうやったら、この子は受け入れやすくなるんだろう?」と子どもが主役で考えるんです。

 

今回のやり方はうまくいかなかった。じゃあ、次はどう工夫したらいいんだろう?と考える。うまくやっている別の人の真似をしてみる。その繰り返しです。自分が対応できなければ、別の人に代わってもらえばいいんです。

 

変なプライドは無い方がうまくいきます。子育て経験があろうと、学校の先生をやっていた経験があろうと、目の前の子どもに対応できていない事実は変わりません。

 

好かれていない。

他の人ならできるのに、自分はできない。

そんなの全部自分の事情です。相手には関係ありません。

 

傷ついている暇があったら、相手のことを一つでも多く知って、どんな世界の持ち主なのか知ろうとした方がよいのではないでしょうか?正解は一つじゃありません。トライアンドエラーを繰り返してください。自分が認められるためでなく、子ども自身の世界が豊かになっていくために。

 

 

病気になるかどうかって、どこで分かれるんだろう。遺伝、環境、性格、能力を考える。

5年前の話なんですが、新卒で入った会社で私は同期が30人くらいいた中で最も早く「病気で退職」することになったんですね。

 

今になって「ADHDあるある」だとはわかるんですが、これを「二次障害」で終わらせたくないんです。

だって、ADHDでも病まない人もいるし、逆に健常者でも仕事を始めて精神疾患を抱える人もいるじゃないですか?

 

今回は

「同じ環境に置かれて、病む人と病まない人ってどこが違うんだろう?」を掘り下げていきます。今回、環境のハードさは他の人と同じだったので、それは省かせて頂きます。

 

パッと思いついた選択肢は2つでした。

 

①自分にまつわる要因

(遺伝、性格、能力、成育歴)

②相性

(仕事との相性、周囲の人との相性)

 

 

ブログの1記事の分量におさえるために、かなりザックリいきます!

 

①自分にまつわる要因の判断基準は「仕事を変えても、同じ問題が起きるかどうか」

 

自分にまつわる要因ってたくさんあります。

一個言えるのは「仕事を何個変えてもダメ」「同じようなところでつまずく」なら、自分の要因が大きいのかな、と思います。

 

自分はどこでつまずくのか、何が苦手なのか。

時間がかかっても、めんどくさくても、対処を考えていく必要があるかもしれません。

長時間労働すると体調を崩すとか、仕事の特定の部分が苦痛なのか、職場の人間関係が悪くなって居づらくなって退社するのか、単純作業だと飽きちゃうとか、色々あると思います。

 

逆に、何があれば続けられるっていう支えの部分も大事だと感じます。

会社の理念に惹かれていれば続けられるのか、それとも自分の時間があればリセットできるのか、給料が高ければ多少の我慢はできるのか。人によって違います。

 

働き始める前に、自分にとって重要なことをあまり分かっていない人は意外と多いと思います。

 

 

相性を確かめるには、別のことにチャレンジするしかない

 

新卒で入った一社目がだめだった人って、私以外にもいました。いわゆる第二新卒という人たちです。

パッと転職して次の会社で上手くやっている人もいました。そういう人は相性が悪かったと言ってもいいと思います。

きっと、一社目でうまくいかなかった理由と、次にどういう会社を選んだらいいのかを把握していたんでしょう。

 

相性と一言で言っても、たくさんあります。

業界、職種、企業、サービスの対象者、職場の人間関係。会社の規模や、トップとの相性なんていうのもあります。

 

私の場合、サービスの対象者と会社の規模はすごく大きいです。

同じ障害福祉でも、対象を成人から子どもに変えたこと。そして、会社の規模が大きくて人事異動もよくある会社から、規模が小さく固定メンバーで働けるようになったことの2つの影響は大きくありました。

 

 

まとめ 「失敗しても立ち上がって、新しい挑戦ができる人は強い」

 

ADHDでも、二次障害にならない人もいます。

逆に、発達じゃなくても働き始めてメンタル病んじゃう人もたくさんいます。

「同じ環境でも、病む人と病まない人はどこが違うのか」を自分の要因と、相性の二つの側面から検討してみました。

 

多分、病んでしまう人の中に多いのは、自分の要因が大きい人じゃないかと思っています。それには、一つ一つ知って対処法を地道に考えていくことです。

でも、自分の要因だけでなく、相性で解決できる部分もあります。いくつも要因ってあり得ます。

 

 

 

私が一つ言えるのは

「いっぱい失敗しても大丈夫なんだ、と思える人は強い」ということです。

傷つかない人じゃなくて、傷ついても立ち上がれる人。

失敗しない人じゃなくて、失敗から学んでまた新しい挑戦をできる人。

 

私の場合、ADHDだったことよりも「失敗したら、一巻の終わり」という思い込みが大きく影響したことで、限界まで無理をしてついに病気になっちゃった気がします。

 

病気はしないに越したことはないと思っています。

でも、それで初めて見えてきたことが多いのもまた事実です。病気をしたことをきっかけに色々見直して修正したことで、病気をする前より楽になりました。

 

辛い時に、声をかけてくれた人は今でも忘れません。こういう人を、恩人って呼ぶのでしょう。

 

 

個人的に

「世の中、そう捨てたもんじゃないな」と思っています。

 

 

 

インプットとアウトプットを怠ると、情報処理の回路そのものが便秘状態になる。

ライターとしては「すごい致命的だなぁ~」と思うのですが、9時~17時で働くと私は頭がパンパンになります。その結果、2つのことが同時に起こります。

 

①本が読めない

②文章が書けない

 

なんか、ぼぉっとする「余白」「遊び」みたいなものが無くなっちゃうんですよね・・・。

「ですよね」って、他人事かって話なんですが。

 

3月26日~4月4日、子どもたちの春休み。によって、放デイの勤務も長くなったことで、一気に文章を書く回路が死んでしまいました。今回は、ちょっとリハビリがてら、「インプットとアウトプットの回路について」考えていきます。

 

①本が読めない

まずはインプットについて。

「なんで読めないの?」って聞かれると難しいんですけど、「読んでも頭に入らない」が正しいです。

 

文字を目が追うんだけれども、どうもピンとこない。

ハッと気づいたら、何のことだかよくわからなくなっている。

こんな感じになっちゃいます。

 

忙しいとそれまで大人しくしていたADHDが活性化される感じです。

注意力が切れる、注意散漫になる。

 

インプットしてないと、当然アウトプットすることなんてないんです。

「これもっと知りたい」というワクワクとか「へぇ!そうなんだ!」みたいな気づきがないんで。

ワクワクと、気づきが溜まると、文章にしたくなります。

 

そんなわけで、本を読めない状態の時は 、文章書けません。

 

②文章が書けない

文章を書くのに、何が大切って集中力です。(※私的には)

一度、ゾーンに入ってしまえばこちらのもの。

「文字の渦に飛び込んでしまえ!そしたら、出来上がるから!」です。

 

頭の中が忙しいと、「うーん、そうは言ってもなぁ・・」

と、流れを横目で見ながら、近くの岩にのぼったまま棒立ちしている感じです。

 

つまり、本を読めない位の状態だと、書く文章もよろしくない。

そもそも、大して書きたくならないんですよね・・

さっきも書きましたが、ワクワクと気づきが鈍くなっている状態なので、すごく気が進まない。

 

それでも絞り出していかないと、書く仕事なんかできないです。

「調子がいい時だけ書くなんて、プロじゃねぇ!」ってことで、なんとかブログ書いてます。

 

今回のまとめ

カッコいい言い方をしてしまうと、インプットとアウトプットの回路ってつながっていると思うんです。

 

アウトプットの量を増やすと、回路そのものが太くなる。

結果として、インプットの質や量も増える。処理量が増えます。

 

その逆もまたしかりで、日々の仕事で忙しいからと言ってアウトプットを怠るとこの回路はたちまち細くなります。

今の私は、回路が細くなった上に、固くなった老廃物がたまっちゃっている感じです。イメージは、ドロドロ血液の血管。そして、便秘。

滞り。

流れない。

 

そんなわけで、忙しくても、アウトプットとインプットの習慣は守らないと「思考回路の便秘状態」になるよって話です。例え方が汚くてすみません。

「どこでもドアって、あえてしずかちゃんのお風呂場に連れて行っているよね」といった子どもの話

小学校4年生Y君(仮名)の観察力に圧倒された時の話を聞いてください。

 

Y君「どこでもドアってさ、すごいよね。だって、しずかちゃんのお家に連れて行って、と思ったら毎回お風呂場でしょ?」

私「たしかに。」

Y君「これ、しずかちゃんのお風呂シーンを覗きたいからだよね。」

私「おお~。ふつうに考えたらしずかちゃんの部屋につながってもおかしくないものね。そうじゃないってことは、どこでもドアはのびたの”裸を見たい”という望みまで知っているから、ということか。おもしろいね。」

 

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私も当然、ドラえもんは観ていたけれど、Y君の着眼点はありませんでした。鋭い。

私は少し別の方向から探ってみたくなりました。

私「でもさ、その時にしずかちゃんがお風呂場にいたから、とは考えられないかな?どこでもドアはしずかちゃんのいる場所に連れて行っただけかもよ?」

少し意地悪な質問をしてみました。

Y君「それはないと思う。」

私「どうして?」

Y君「だってさ、スネ夫の家にどこでもドアに行く時は、必ず庭なんだよ。スネ夫が話をしているリビングには絶対に行かない。」

私「言われてみれば、毎回庭だねぇ!よく気づいたね!」

Y君「なぜかって考えた時に、のびたは”スネ夫の話を盗み聞きするため”なんだよ。だから、スネ夫がいるリビングに直接会いに行ったらたくらみがバレちゃうから困るんだ。

さらに、ジャイアンの家に行く時は、毎回ジャイアンがお母さんに怒られているんだ。

 どこでもドアは、毎回”のびたの願いを叶えるためには、どこに行ったらいいのか”まで考えて、場所に連れて行ってくれいるんだよ。すごいよね」

 

この意見には圧倒されました。

Y君の「情報を読み取る力」の高さに、「すごいね!」としか言えませんでした。

 

きっと、どこでもドアの都合のよさに対するちょっとした違和感を持つ人は多いと思うのです。

だから私はもし「どこでもドアってどうして毎回、しずかちゃんのお風呂のシーンばっかりなのー?おかしいよね」と言われたら、「そうだね」とは言うものの、Y君に対してほどは感心しません。

 

なぜか?

私はY君が「事実を根拠に、仮説を導き出している」ことに対して「すごい」と思ったからです。

 

大人でも、「なんとなく」発言している人って多いと思うのです。

「この案についてどう思いますか?」と聞かれて「いいと思う」としか言えない人。

「どこが、どういいの?」ってことです。

小学生で、具体的に根拠を挙げて話ができるってなかなかないと思います。

 

どこでもドアは、望みの場所に連れて行ってくれる。

家の前でなく、お風呂場なのも意図的だろう。

じゃあ、別のケース、スネ夫の場合はどうだろう?と条件を変えて、自分の仮説をたしかめる。論理的。

 

今日の結論は、とりあえず「キャーッ!のびたさんのエッチ!」は事実だろう、ってことです。笑